正直なところ入院には慣れている。
ざっと思い出しても片手で余るくらいは入院しているし、それ以上に骨折や怪我をしている。
尿のカテーテルなんて普通の人はそうそう経験するものではないが、今回で3回目だ。
若い頃は恥ずかしいとか思ったが年を取るに従って病人なんだから仕方がないと諦められるようになってきた。
看護師も手馴れたもので何の躊躇もなく入れるし、抜いてくれる。
病人に恥とか外聞とかって不要だよ。
バイクに乗り始めて外科的な怪我が一気に増えた。
でもバイクで怪我をしても精神的にやられる事はほとんどなかった。
精神的にやられるとしたら再起不能になるくらいの怪我を除けば内科的な病気だろう。
何時治るか判らないような病気にかかると、ホントに精神的に参ってしまう。
中学校2年のクリスマス前。
両親に連れられて地元の厚生病院に行った。
本人に自覚症状はなかったのだが、どうも浮腫みが出ていたようだ。
それを心配した両親が精密検査をしてもらうために病院へ連れて来たのだ。
診察したら速攻で検査入院。
いろんな検査をするので1〜2週間ほど入院が必要ですと言われた。
検査のために1,2週間なんて今なら考えられないが当時は普通だったのだろう。
本人は病気とは思っていないので気楽なもので、
「期末試験受けなくて済んだ。」
位にしか思っていなかった。
ところが世の中そんなに甘いもんじゃなく、1週間が過ぎ2週間経っても退院の話はなかった。
検査の結果はネフローゼ症候群。
今では治療可能な病院だが当時は不治の病だったのだ。
が、言われた本人はどんな病気なのか理解できていなくて3ヶ月位入院して治療しましょうと言われて納得していた。
医者は3ヶ月なんて思っていなかっただろうし、両親には治らないと話していたのだと思う。
まあ、知らないのは自分だけってことだ。
でも、そんなこと何時までも隠しとおせるものじゃない。
学校の勉強が遅れると困るので入院中も独学で勉強を続けていたのだが、病室では他の患者に迷惑がかかるのでナースステーションで勉強させてもらっていた。
幸いナースステーションには医学書が置いてあった。
勉強の合間にその医学書を読み自分の病気がどんなものかを理解した。
「へぇ〜、治らないのかぁ。」
妙に冷静だった。
「死んじゃうんだぁ」
セットされた時間が判らない時限爆弾みたいなもんだ。
諦めるしかなかった。
入院が長くなるに従って、同じ病気の患者が何人もいることが判った。
共通していることは何度も入退院を繰り返し、徐々に病気が進行しているってことだ。
20までは生きられないようだった。
入院生活が長くなるといろんな患者と出会う。
いいことも悪いこともみんな病院で覚えた気がする。
土方のおっちゃんに花札教えてもらったり、上品なおじさんに囲碁を教えてもらったりして入院生活を楽しんでいた。
囲碁は結構はまって、毎日のように教えてもらいに病室へ通ったのを覚えている。
毎日通ううちにどんどん上達し、入院して半年ほどたったころだろうか教えてくれた人が退院するまでにアマチュアの3段に正目で勝負が出来るようになった。
他にも入院患者で囲碁をうつ人が何人かいて当初自分が一番弱かったのだが、その頃にはほとんどの人に勝てるようになっていた。
入院した翌年の4月から病院のある町の中学校に通うことになった。
旭川の専用の施設に行く話もあったのだが断っての転校だ。
同じ病気で病院から学校に通う者がひとつ年上で同級生でいたのでそれが出来たのだと思う。
病人だということで、全く変則的な学生生活だった。
授業は午前中のみで病院へ戻る。体育は全休だ。
それでも授業について行けたのは今思えば凄いことだと思う。
今なら絶対無理だ。
そんな変則的な学生生活を送っていたある日の朝。
同じ病気で病態が悪くなり個室に入っていた17.8歳の人が囲碁をうちに病室に来た。
回復したんだ。
何も考えずにそう理解した。
登校時間まであまり時間はないが一局位は出来そうだ。
対局開始。
彼の打ち手は久し振りの勝負に力が入らないのか弱々しい。
呆気なく勝負はついてしまった。
前は随分強かったのに全く相手にならず完勝してしまった。
彼はその時とても寂しそうな顔をしていた。
そんな彼の横顔を尻目に学校へ向かった。
昼過ぎに学校から帰ってくると、
彼の病室が騒々しかった。
病態が急変し亡くなったと知らされた。
ショックだった。
数時間前に一局指した相手が亡くなってしまったのだ。
気持ちの整理が付かなかった。
彼が亡くなった事もショックだったが、それ以上になぜ朝の一局で勝ってしまったのかと自問自答した。
もし彼が朝の勝負で勝っていたら死ななかったかもと、しばらく思いつづけた。
今でもあの一局は負ければよかったと思うことがあるが、あの勝負は勝たなければいけない一局だったと思う。
だって死の直前に指した一局が手抜きだったなんて最悪じゃない。
彼の死への手向けには全力勝負でなければいけなかったのだ。
今更ながら、彼の冥福を祈ろう。
その後、入院しながら学校へ通う生活は中3の1月まで続いた。
異常な日常だが慣れてしまえばそれはそれで楽しかった。
なんだか寮生活をしているような感じだ。
それも嫌な先輩の代わりに優しいお姉さんのような看護婦さんがいる寮生活だ。
それに病院から学校に通っている変な生徒に興味を持って病院に遊びに来る同級生も沢山いた。
冬休みのある日、もう直ぐ高校入試という時期に医師から高校入試もある事だから退院して入試の勉強をした方がいいと言われた。
こんな時期にそんな事言われても、間に合うわけないだろうという気持ちだったが結局退院することになった。
退院すれば地元の中学校へ転校だ。
受験勉強以外にすることが増えバタバタしてしまった。
折角、転校先でも友達ができ楽しく過ごしていたのにまた振り出しに戻るだ。
いくら元いた学校に戻るといったって、元気だった奴が病人になって帰ってきたら同級生の対応も変わるってもんだ。
案の定、転校して前の学校に戻るとみんなの様子がよそよそしい。
やっぱ、転校なんてしなきゃよかったと思った。
どうせ2ヶ月位しか通わないんだから転校しても意味がないじゃん。
はぁ。。。
あとで判ったことなのだが、親が地元の中学を卒業させたかったらしい。
う〜ん、気持ちは判らんでもないが勘弁してよって感じ。
そんなゴタゴタの中、無事受験終了。
入試の結果は10位。
田舎の進学校なのでたいした事はないのだが、まともに学校にも行ってなかったことを考えれば十分か。
高校には近隣の市町村から生徒が集まって来るので、入学当初の生徒達の仕事は新しい人間関係を作ることだが、二つの学校に通っていた自分には知り合いが沢山いて人間関係には苦労しなかった。
高校に入ってからも通院は続いていたが一週間毎の通院が二週間毎に、そして一ヶ月毎と間隔が開き最終的には2,3ヶ月に一回の通院で済むようになっていった。
その間、薬の服薬は続き、体育は見学 。
体育の成績はいつも1か2だった。
授業受けてないんだからあたり前か。
高校生活は演劇に狂ってしまい、ろくに勉強もせずに3年間を過ごした。
見る見る成績も下がり卒業する頃には散々な成績になっていた。
卒業後は芝居と勉強の両方を両立するために関東の大学へ。
思いっきりレベルを下げたので入試の成績は4位。
たいしたもんだ。
入った大学には医学部が付属していて、腎臓病では有名な医師がいた。
早速、付属病院で診察してもらった。
今までの経過を話し、診察、検査。
結果は。。。
首を傾げる医師。
医師:「本当にネフローゼって診断された?」
自分:「はっ?」
医師:「どうも違うような気がするんだよねぇ。」
自分:「。。。」
医師:「起立性蛋白っていうのがあって、それじゃないかと思う。」
自分:「。。。」
医師:「とりあえず、暫く尿検査を続ければ判ると思うので調べてみましょう。」
自分:「はい。。。」
一月ほど尿検査を続けて、結果は起立性蛋白ということに落ち着いた。
起立性蛋白というのは立ち上がったりするとタンパク尿がでる症状で、腎臓病で尿にタンパクが出るのとは違い病的なものではないのだ。
なんか納得いかなかった。
じゃあ今までの4年間は何だったの?
病気じゃなかったことは嬉しいが、過ぎ去った4年の月日は戻らない。
「俺の青春返せよ!」
でも、いくら騒いでも帰ってこないんだなぁ。。。
いい経験したと思って諦めるか。
はぁ、また一大転機だ。
いままで出来なかった分、身体を使う遊びに目覚めてしまった。
そして、そのまま現在に至だ。
人生って面白いね。